冬の朝

「間に合わないかもな…。」

 歩きながら、揺れる携帯のディスプレイに映し出される時刻を見て呟く。携帯と左手をコートのポケットに仕舞い、それから右手に持つコーヒーを口にする。やっぱり、いつもより苦い。ブラックは失敗だったなと改めて思う。

 失敗といえば、朝、家を出た時点で既に遅刻しているのに、あまりの外の寒さに、コンビニでコーヒーを買おうなんて思い立ってしまったことだ。しかも、レジの店員に直接申し出るタイプのやつ。缶コーヒーと違って、抽出に時間がとられる。頼む前から分かってた事なのに、注文した途端焦りが生じて。それで何か取り戻すように、砂糖とミルクを断ってしまった。

 苦味はともかく寒さは和らぐので、とにかくこれを燃料に歩を進める。いつもは必ず守る信号を無視し、スクランブルでない交差点を斜めに渡って、その都度コーヒーを口にしながら、最短のルートで先を急ぐ。ちょうど中間に来たところで、また携帯で時刻を確認してみる。いくらか取り戻せたようだ。少し速度を緩め、またコーヒーを飲もうとカップを口にする。するとここで、コーヒーをすべて飲み干してしまったことに気付く。

 サイズも失敗だったかと、朝から散々な自分に少し気が滅入る。とはいえ、先は急がなければいけないし、それにたかがコーヒーくらいだ。すぐ気を取り直して、空のカップを持つ右手を、あえて力強く振りながら前へ進む。

 外気に触れる右手が痛い、としばらく歩いて気が付く。さっきまで暖かったカップが、使い古したカイロのように、もう殆ど温度を失ってしまったせいだ。カップを、ポケットに仕舞うには少し大きすぎるし、潰して入れても、中に残るコーヒーの水滴がコートを汚してしまう恐れがある。とりあえず、指先を動かし息を吹きかけ紛らわせてみるが、右手はどんどん冷たくなっていく。手から全身へ寒さが拡がっていくのがわかる。

 左手に持ち替えてみる事にする。右手をポケットに避難させ、今度は左手に冷気を触れさせる。これで大丈夫だと立て直した気になるが、しばらくすると左手も冷たくなり、またカップを右手に持ち直す。冷たくなるたび、右手と左手の役割を交代させていく。交代の間隔はほとんど無くなり、両手の感覚も次第に無くなっていく。寒さが全身を駆け巡る。心なしか足取りも重くなったような気がする。

「とにかく、これを捨てよう…。」

 と、道中捨ててしまえるゴミ箱がないか、探す。でも、毎日通うこの道にそんなものないことは知っているし、道に投げ捨ててしまおうかとも思ったが、自分にそんな事が出来ないことも知っている。

 カーブの坂道を登りきった所で、自販機がある事に気がつく。こんなところにあったかなと思わず立ち止まり、ふと横に目をやる。そこには、ペットボトルと空き缶用とが一つになったゴミ箱があった。これって投入口は分けてあるけど、結局同じ所に入るから意味ないんだよなあなどと考えていると、次第にこのゴミ箱に捨ててしまおうかという思いに駆られる。でも、反射的にそうは出来なくて、さらに、燃えるゴミ用ではないじゃないかとつまらなく真面目に考え始め、やっぱり捨ててはいけないと思い直してしまう。でも、あまりの寒さのためか、本能的にまた捨てたい気持ちが強くなってくる。

 不毛な思考の繰り返しの末、やっと捨てることを決断する。それでも、すぐにそうは出来なくて、今度は捨てることに納得出来る理由を探し始める。今、自分が世界で一番無駄な時間を過ごしているんだろうなあとぼんやり思いながら、適当な理由を探す。結局、ペットボトルと空き缶が分別されず入っているんだから、何を捨てようと同じことだと思い至り、ようやく安心してゴミ箱に近づく。

 いよいよと目の前に来た瞬間、不意に嫌な予感がよぎる。何か、良くないことが起こりそうな気がする。でも、ここまで来て止めるのは絶対に、ない。そう、すぐに思い直して、カップの底をゴミ箱に向けるように照準を合わせる。また一瞬、嫌な予感がよぎる。ああ、もうと半ばヤケクソになりながら、ゴミ箱の二つある内、右の方の「空き缶」と書かれた穴目がけて、右手で一気に押し入れる。すると、

「ガッ」

と、ゴミ箱の口とカップのリッドの縁が、ちょうど挟まってしまう。無理矢理押し込めようとするが、全く入る気配はない。しまった、と慌ててカップを引き戻して、逃げるようにその場を離れる。誰かに見られていないだろうかと視線だけ後ろにやると、誰もいない。よかったと安心して前に向き直すと、サラリーマン風のスーツの男がこちらに向かって歩いてくるのが分かった。全身の毛が逆立つ感覚に襲われる。男とすれ違わないように、逃げるようにして手前の十字路を左に曲がる。

 曲がると見覚えのない通りだった。一瞬、方向感覚を失って、目の前にノイズのようなものが走る。いつもと一本違う所を曲がっただけなのにと、ほとほと自分に愛想を尽きたくなる。とにかく先に進まなきゃと奮い立たせるようにして、わざと歩幅を大きくして進む。

 やっと視界を取り戻して正面をよく見ると、前をいく女性がいるのに気付いた。携帯を確認しつつ早歩きで急ぐ姿を見て、彼女も同じ所に向かっているのかなと推測する。右手には、来る途中に買っただろう菓子パンが持たれていた。ほとんど一口しか残っておらず、それももう今食べ終えた。袋の紙くずだけが、行き場をなくしたように握られている。やっぱり同じだな、と根拠もなく確信する。

 何か見つけたのか、彼女は左の方に首を向けた。ほんの少し見える横顔に、何故か少しだけ緊張する。彼女は通りの右端から左端を弧を描くように進んでいく。目線でその先を追っていくと、どうやら自販機に向かっているようだった。その瞬間、先ほどの出来事が走馬灯のように思い出され、目の前にノイズが走りそうになる。記憶を振り払うように頭を強く左右に振り、助けを求めるように彼女の姿に目を凝らした。彼女は、もう自販機の横につけている。それを見てまた、嫌な予感がよぎる。それからやはり、彼女はその横のゴミ箱へと向かっていく。ああ、もうダメだと思ったその時、彼女は立ち止まることなく、またそちらに目をやることなく、ただ真っ直ぐ前を向いたまま、ヒョイとそれを真横に投げた。投げられたそれは、寸分の狂いもなくゴミ箱の口に吸い込まれ、彼女はやはり立ち止まることなく、そのまま流れるように立ち去った。

「完璧だ…。」

 と、つい声に出して呟く。いや、何が完璧なのかは訳が分からないが、ただ見惚れるようにその場に立ち尽くしてしまう。目だけが彼女の背中を追う。彼女は振り返ることなく、ただただ真っ直ぐに進んでいく。

 ふと、無意味に中身のないカップに口をつけ傾けてみると、かろうじて一滴だけ舌を舐めた。口いっぱいにコーヒーの香りが広がる。さっき飲んだよりも苦い気がする。

 何故か急に涙が出そうになって、慌ててギュッと目を閉じる。全身がこわばっていることに気が付く。両手は相変わらず冷たい。両足もつま先まで冷え切っていたと知る。

 目を閉じたまま、ふうと息を吐いてみると、全身の力が一気に抜けた。体中に血が巡っていくのが分かる。両手と両足の感覚も少しづつ取り戻されるようで、体の輪郭がよりはっきり掴める気がする。

 目を大きく見開いてみる。通りの正面を見ると、彼女はもう、いない。漠然と、辺りを見渡してみる。何故だか景色がさっきより整って見える気がした。陽が照っていることにも今、ようやく気がついた。ふいに、自分は、些細なこととささやかなことの間でしか生きられないんだ、と確信する。

 思い出したように、時刻を確認するため携帯をポケットから取り出す。でもやっぱり思い留まって、すぐポケットにそれを仕舞う。

 また、カップを持ち替えて、今度は逆の手もポケットから出して、確かめるようにつま先に力を込める。

 今走れば彼女に追いつけるかなと、ふとそう思う。