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そこは、病院の喫煙所。嫌煙の進む時代の余波からか、病院といっても院内にあるわけではなく、門を出て右に徒歩数十秒ほど行ったところに設けられている。トタンの屋根と壁に、むき出しの鉄の骨組み。道路側の面に壁はなく吹きっさらしで、まるで田舎のバス停のようだ。骨組み部分はいくらか錆びがあり、建物自体それほど新しくはない。おそらく以前本当にバス停として使われていたのを、即席に利用した喫煙所なのだろう。それを裏付けるように中は、外を向くように木のベンチが一つ置かれ、その前に四角い筒型の喫煙台が置かれてあるだけだった。ベンチには、病衣を着た男が並んで座っている。右藤と左藤だった。

右藤はふうと息を吐いて、立ち上った煙を目で追って行く。上った煙は屋根にぶつかって、行き場を失ったように上の方で滞留した。左から左藤の吐いた煙が上ってくるのがわかる。後を追うように右藤の煙にぶつかって、二本は次第に混じり合っていく。右藤は目を凝らして見つめるが、もうどっちがどっちの煙か分からなくなった。右藤が左に目を遣ると、左藤は次のタバコに火をつけようとしている。二人はついさっき、初めて出会ったばかりだった。

検査を終えた右藤が、最後の説明の時間まで特にやることもなく病院のロビーで時間を潰しているところに、同じように検査を終えた左藤が突然声をかけたのだ。

「左藤です。右藤さん、タバコ吸いに行きませんか?」

左藤は、背の低い男だった。右藤が座った状態でも、直立した彼と目が合いそうになる。それでいて髪の毛は、顔が埋まるほどに長い。パーマをかけていることもあるからか、頭が膨らんでいるように見えた。前髪で目も隠れて、表情があまり読み取れない。不気味、というよりなんというか変わったやつだな、と右藤は思ったが、何故かすんなりその申し出を受け入れた。

喫煙中、二人の間にこれといった会話は特になかった。正面をぼーっと眺めながらただただタバコの煙をふかす 。喫煙所のベンチから見える風景は、草木で荒れ果てた空き地と、その周りを囲むように建つ大して高くもないビル。その日は雲ひとつない晴天だったが、そのビルに遮ぎられるせいで、空模様も見ることができなかった。病衣にスリッパの二人の姿はあまりにも異様だったが、そんな姿をしているのも気にならないほど人の気配を感じない。車もどういうことか、一台も通らなかった。まさしく、静寂という空間だった。

会話はなかったが、不思議と右藤は気まずさを感じなかった。理由は分からなかったが、しかし、なんとなくこういう雰囲気になれると予感めいたものが右藤にはあった。だからこそすんなり彼の申し出を受け入れられることが出来たはずだし、左藤が自分に声をかけたのもきっと彼もそう感じていたんだろうと思う。

右藤が左藤の方に目を遣ると、彼は相変わらず前をぼーっと向いたままタバコをふかしていた。身長が低いのに加えて猫背っぽく前かがみでいるので、ほとんど見下ろすような状態になる。右藤の角度から見ると、ちょうど鼻やら口やらが隠れて彼の頭は大きな毛玉のように見えた。その毛玉はほとんど動くことがなく、そこから伸びる一筋の煙の揺らめきだけが時間の経過を感じさせた。右藤はふいに、話しかけてみようかなという気になった。

「・・・ちょっと、疲れたね。」

「はい、そうっすね・・」

「左藤くんて、いくつなんだっけ?」

「はい、まあ、26っすね。」

「今年で26?」

「いや、今年、27っす。」

「そっか。じゃあ、俺の3つ下だね」

「あっそうなんすね。」

「そう、今年30。」

「へえ・・・。あの、右藤さんて何で人間ドック受けようと思ったんすか?」

「それは、まあ・・・30になるから、かな。」受け入れたのは30歳になることもあるかもしれない、と右藤は話しながら漠然とそう思う。

「左藤くんはなんで人間ドックを受けようとおもったの?」

「それは・・・」左藤は口をつぐんで、その後が続くことはもうなかった。

時間帯のせいもあって日が全く差さず、喫煙所の中は妙に薄暗くひんやりと冷たかった。右藤は、タバコの火を消そうと座り込んだまま、前にある喫煙台の方へ手だけ伸ばした。ギリギリ届きそうにないので、ズズッとザラついたコンクリートの床にスリッパを少し滑らせて、前かがみになる。なんとなく上に視線を上げると、屋根と奥のビルの間から、澄んだ空が垣間見えた。鼻が少しツンとする。もう秋だな、とその時感じた。

喫煙台にタバコを押し当て、さて、と右藤が立ち上がろうとしたその時、「実は・・・」と左藤がポツリと話し出した。

「実は・・・」

「何?」

「実は、石があるんすけど・・」

「えっ?」

「いや、なんか持ってると幸せになれる石みたいで・・・」

あまりの唐突さに思わず吹き出しそうになる。

「いや、俺もこれ持ってから、人生が良い方に向いて来たっていうか・・・」

左藤がまっすぐ視線をこちらに向けているのを感じる。しまったなあ、と右藤は思う。

「ちょっといま、いくつか持ってて。あの、これなんすけど・・・

と、彼がポケットをまさぐろうとした瞬間、悲鳴のような爆音が鳴り響いた。トタンの屋根と壁がビリビリと小刻みに震える。どうやらその音はこちらに近づいてくるようだった。悲鳴と震えがドンドン大きくなっていく。左の方から、白い物体が現れた。それは、救急車だった。目の前を通り過ぎるのを、右藤は無意識に目で追っていく。彼も同じようにそうしているようだった。救急車はすぐ、右の方へと姿を消した。サイレンの音がどんどん遠ざかっていく。トタンの震えも弱まる。また、静寂がそこに戻った。

左藤のほうに目をやると、もう右藤の方を見てはいなかった。何もなかったように前を向いて、タバコをふかすだけだった。右藤もそれに続くように、何も聞かずただタバコに火をつけた。右藤はさっきみたいにまた吐いた煙を目で追って行くと、今度は右藤の煙が左藤の煙にぶつかっていく。今度こそ見失うまいと目を凝らしていると、がやがやと集団がこちらに向かってくる音がした。その音で我に返ったように、右藤はまだ一口しか吸っていないタバコを喫煙台に押し当て、立ち上がった。

それから、およそ1ヶ月後。右藤は30歳を迎えていた。しかし、これといった変化はなく、自分が二十代を終えたことに実感が湧かない日々。その日の夜も、いつも通り会社からまっすぐ自宅のマンションに帰り、決まったように一階にある自分の部屋の郵便受けを覗く。すると、投入口から飛び出すように大きな封筒が入っているのが分かった。引き抜いて見てみるとそれは、病院から送られて来たあの日の結果だった。あの時のことが思い出される。右藤はあの出来事はもしかすると夢だったんじゃないかと思う時がある。あの日タバコなんか吸ってはいなくて、左藤なんてやつも存在などしていなかったんじゃないだろうか、と。

中を見ようと、糊付けされた封筒を粗っぽく開ける。保険の手引きや医療関係のチラシが入れられた中から、結果の書かれた紙だけを取り出した。最初の項目を見て右藤は「あれ」声が漏れた。そこには、こう記載されていた。

身長:155cm

慌てて名前の欄を確認すると、そこには「佐藤」と書かれていた。

見た途端、右藤の脳裏に二人の煙が混じり合う光景が蘇る。反射的に視線が上を向く。あの時のように目を凝らしてみる。しかし、どれだけ凝らしても、やはりただのマンションの天井だった。