おれ、らも

同居していた彼女がいなくなって何度目かの朝。一人分ポッカリと空いた空間は部屋全体を冷たい印象にしていた。まだ慣れなかった。

満員電車に揺られ、どうして彼女がいなくなったのか考える。しかし、これといったことが思いつかなかった。これといったことが思いつけていないこと自体がいけないのかも、と思った。
車内のアナウンスが秋葉原駅の二つ前、水道橋駅のまもなくの到着を報せていることが耳に入り、イヤホンから流れる音楽が終わっていることに気づいた。ひとまず考えるのをやめて、二駅分の長さの曲を探した。

勤め先は、映画雑誌を刊行する出版社。紙媒体の衰退が著しい出版業界にあって、webへの移行がそれなりに上手くいっており、今後もそれなりに続いていく様相だった。
世代別に分けた社員と80歳を目前にした社長との朝ミーティングがきまりの習慣だった。といっても、若手スタッフとのミーティングは、社長がかつてこういった功績を成し遂げた、という自慢話を聞くだけで、基本誰も聞いていなかった。
そんな中、懸命に社長の話を聴きながらメモをとっている人がいた。新入社員のヨイチさん。まだ入って数ヶ月だが、仕事に対して非常に熱意があり、また誰にでも気兼ねなく話しかける気さくな性格だった。
何より映画に対する「好き」という表現が明確だった。対照的な性格だと思った。いわゆる「できる後輩」だったが、年齢はヨイチさんの方が年上だったこともあり、その分気持ちは楽だった。むしろ憧れの感情すら抱いていた。

上司に呼ばれ、次の号で一ページ好きに使っていいから、好きに映画評論を書いてみろと言われた。頼んでいた評論家が飛んでしまったからとのことだった。といっても、まだ締め切りまで時間はあるから他の評論家に頼めばいいわけで、とどのつまりチャンスというわけだった。
正直、面倒だと思った。何を表現していいのか全く分からなかったからだった。もちろん映画が好きでこの出版社に入ったわけだが、最近、映画が本当に好きなのかすら分からなくなっていた。映画の話を誰かとしても、自分の気持ちが伝わった気がしなかった。
好きなものを誰かに話すことは、自分がその好きなものに対してどれほど好きであるかを実感するための確認作業でないかと思う。であればその実感は、久しく得られていなかった。

帰りの電車。揺られながら、居なくなってしまった彼女のことを思う。映画と同様、彼女にも「好き」という感情をうまく表現できていなかったのかもと考える。
ふと、彼女に突然、私と結婚する気ある、と聞かれたことを思い出した。唐突だったこともあって冗談まじりの質問かと思い、つい笑ってしまった。そして、なぜかその質問に答えられなかった。
だよね、と笑顔でつぶやいた彼女の目がとても悲しかったことを思い出した。イヤホンから流れる音楽が終わっていることに気づいて、慌てて探した。

誰もいない部屋に帰るのが億劫だった。どこかで一杯飲んでいこうかと思ったが、店に入ることもまた億劫に感じられた。やっぱり帰ろうと思い、適当にコンビニで買い物を済ませ、まっすぐアパートに向かった。
玄関のドアを開けると、なぜか人の気配を感じた。彼女が帰っているのかと、嬉しさと、いま会っても上手く取り合えないという重たい気持ちが同時に襲ってきた。
ひと呼吸入れて、中に入りリビングに向かった。やはり人影があった。
えっ、という声が漏れる。そこにいたのは彼女ではなかった。
そこにいたのは、中島らもだった。

黒いハットにサングラス。ウェーブがかった長髪の髪。左耳にだけつけた、シルバーリングのピアス。ビョウのついた黒革のジャケット。タバコの苦い香りと不思議な甘い香りが香った。中島らもの匂いなど嗅いだことあるはずなかったが、その匂いこそ彼が「中島らも」だということを強く確信させた。

「タバコ吸うんか」というらもに、何も言えず無言で立ち尽くしてしまった。改めて尋ねられ、慌てて応えた。
「あ、吸ってないですね。まえは吸ってたんですけど」
「なんや、やめたんかいな。なんでやめたんや」
「いや、なんとなくっていうか。お金とかかかるんで」
「そうか。ほなしゃあないな」
「すいません・・・」
「謝らんでええがな。ノド乾いたなぁ」
「酒ですか。缶ビールならありますけど」
「いや。牛乳やなぁ」
後期のらもなのだろうか。後年のらもは、アルコール依存症になってからもやめずの度重なる飲酒で、骨までやせ細ってしまい、それからは健康に気を使うため牛乳を飲んでいたらしかった。
改めて彼を観察すると、半袖からほっそりと伸びた腕や垣間見える顔の皮膚からは、年輪を感じさせるシワやシミが確認できた。
「牛乳、ですか・・・ちょっとコンビニ行ってきます」
「いや、あらへんならええよ」
らもはそう言うと、寝室の和室に入り、敷いたままだった布団に勝手に潜り込み、寝た。

これが「夢」だとは思わなかった。「夢」であればここに至る一日の記憶があまりに明晰だったし、何よりその存在感はリアルすぎた。とはいえ、らもはすでに亡くなっているわけで、では「幽霊」なのかとも思ったが、これまで霊感など全く感じたことはなかったので、それはむしろ腑に落ちなかった。
一応「夢」でないことを証明するため、無駄なこととわかっていながら、芸もなく頬をつねった。しかし頬をつねっても大した痛みがなかったので、脇腹をつねってそれなりの痛みを感じ、やはり無駄だったことを確認した。
部屋着に着替え、コンビニで買ったハイボールの缶を開け飲んだ。一緒に買ったパスタには手を付けず、冷蔵庫にしまうのも面倒に感じたのでテーブルに置いたままにした。今日はシャワーも浴びずに寝ようと思った。

ハイボールをまた一口飲み、結局のところ、自分の想像なんだろうなと思った。
和室のふくらみのある布団に目をやった。頭も丸ごと被って眠っていた。この、丸ごと被って眠っていることも自分の想像からくる描写なのだろうと思うと、少し寂しくなった。

目を覚ますと、そのままソファに眠ってしまっていることに気づいた。目覚ましをつけ忘れていて、慌てて携帯で時計を確認するとまだ起きるには早い時間だった。
和室を確認すると、布団のふくらみは無くなっていた。やっぱり、と思い、少し残念にも思った。すると、トイレを水洗する音が聞こえた。トイレから、らもが出てきた。
らもはテーブルの前に座り、食べかけのパスタを改めて食べ始めた。昨日晩ご飯用に買ったものを勝手に食べていた。食事はするんだ、と思った。そして昨日ハイボール以外何も食べていないことに気づき、急にお腹が空いた。
コンビニで何か買ってこようと立ち上がり、部屋着にコートを羽織った。らもは特に気に留めなかった。話しかけてみるついでに尋ねた。
「あの、コンビニ行きますけど」
「そうか。オレも行くわ」
外には出歩けるんだと思い、まあ自分の想像なのだから別におかしくもないか、と納得した。

二人でコンビニに入る。おにぎりと味噌汁を買おうとそのコーナーへ向かおうとすると、らもが、ノド乾いたなぁ、と呟いた。ああそうだ、と思い牛乳をカゴに入れた。すると「酒はええんか」とらも。「え、お酒飲むんですか」と少し驚いて答えると、らもは返事をしなかった。お酒のコーナーに向かい、何飲みます、と尋ねても、らもは黙り込んだままだった。少し怒っているようだった。仕方なく適当に見繕い、それからおにぎりを四つとカップの味噌汁を二つカゴに入れ、レジに向かった。
店員にお箸は一膳でよろしいですか、と尋ねられる。やはり見えていないのだなと思った。二膳くださいと応えた。
部屋に戻り、どれ飲みます、と聞いても、らもは応えなかった。面倒だなぁと思った。しかし、その面倒さが存在をよりリアルに思わせ、少し嬉しくもあった。テーブルに買ったものを置き、朝の準備を始めた。

とある豪邸の前に立っている。いわゆる大御所評論家の家だった。その評論家の原稿を預かるために来たのだった。トリュフォーと酒を酌み交わしたことがある、と言うのがその評論家の口癖だった。またヨイチさんも一緒で、彼とその大御所との初顔合わせの意味もあった。

部屋に上げられると、評論家自慢のシアタールームに通された。評論家がセレクトした作品の観賞会が始まるのだ。原稿の受け取りはその観賞会ののち、感想会でうまい具合に感想を述べなければ受け取れないのだった。
まずは評論家の前口上からスタートする。これが非常に長かった。その作品が作られた当時の背景が評論家個人の歴史とともに語られるわけだが、次第に話は遡っていき、結局「國民の創生」まで辿るのが常だった。
いつも観賞自体は楽しめるのだが、その後の感想がうまくいかないのだった。感想を述べても、そうじゃない、と評論家から訂正が入るのだが、それは正に言いたいことだったりするのが余計に落ち込ませた。
そんなわけでその評論家とはうまくいっていなくて、またそれが彼の感情を焚きつけているようで、大体受け取りはすんなりいかず、最低でも八時間はかかってしまうのが当たり前だった。

しかし、その日は簡単に受け取ることができた。
ヨイチさんが非常にうまくやりとりを遂げたからだった。彼は、その評論家の語る言葉に絶妙に反応し、また問われたことに対してこれ以上ないほどうまく応えた。その応えにも無理はなく、まさに彼の言葉そのものであるように思わせた。
その評論家は非常に満足しているようだった。その証拠に、ヨイチさんに彼がセレクションしたDVDをプレゼントしていた。

会社へと戻る電車。ヨイチさんがもらったDVDを挟んで並んで座った。
その時ばかりは、流石に嫉妬の気持ちが芽生えた。次からは、彼が原稿受け取りの担当になるのだろうなと思った。そんな嫉妬心から、次の号で一ページ任されることになったことをヨイチさんに伝えた。
しかしヨイチさんは、ただ祝福と激励の言葉を投げかけた。そして「実はもうこのもらったDVDは観たことがあるんだけど、それならこれ観た方がいいよ」ともらったDVDの中の一枚を差し出した。
会社に戻ると、上司からどんなページにするか決まったか、と尋ねられた。まだ何も決まってない、とは応えられず、とりあえずヨイチさんからもらったDVDを差し出し、この作品を中心に書きたい、と伝えた。

その日は会社に戻ってから、すぐに帰路についた。らものことが気になったこともあるが、とにかく長く会社にいたくなかった。一人でいたかった。ということで、駅前の居酒屋に入った。案内されたテーブル席には、らもが座っていた。

一杯目のビールで乾杯。しばらくの沈黙のあと、雑誌で一ページ任されることをらもに打ち明けた。らもは、コピーライターとは、クライアントの要求に応える職業だと応えた。自己表現でなく、求められていることにいかに応えるかが重要だということだった。言っていることは分かるが、アドバイスとして全くピンとこなかった。それから次の言葉を待ったが、彼の言葉は続かなかった。
らもになぜ打ち明けたのかというと、彼が現れたのは、この仕事について手助けをしてくれる存在として現れたのではないかと期待したからだった。らもはコピーライターであり、小説家でもあった。つまり、言葉を生業にしていた男で、そんな男がちょうど目の前に現れたのはそういうことだと思ったからだった。
しかし、それは違ったようだった。

互いに無言で酒を飲む時間が流れた。非常に気まずい空気だと思った。といっても、気まずく感じているのは自分だけで、らもは平気そうだった。
どうしてらもが現れたのか、ということについて考えた。まず、どうして中島らもなのかが分からなかった。というのも、中島らもという存在が自分にとってとても大きな存在だと思えないからだった。
確かに名前は知っているし、いくつかの作品を目にしたこともあったが、とはいえその程度だった。その程度の好きな作家であればいくらでもいるわけで、そして、こうして話のネタに困っていることがその程度であることの何よりの証明だった。だから何らかの必然性があってのことだと思ったがやはり思い当たらなかった。どうせなら淀川長治あたりが出てきてくれればよかったのに、と思ったりなんかした。

流石に耐えかねて、話題を考え始めた。らもが音楽を好きだったことを思い出した。とりわけロックが好きで、忌野清志郎を特に敬愛していたことも思い出した。
忌野清志郎さん、好きなんですよね」
「好きやなぁ。清志郎のロックはほんもんやからな」
「へえ。本物ってどんなところが」
「どこまでも純粋で剥き出しなところやろな」
「ロックっていうと、やっぱりビートルズも本物」
ビートルズもええけど、あれは綺麗すぎるな。どっちかいうたらストーンズの方がロックや。まあ俺の好みやけど。清志郎は今も元気にしとるんか」
「えっ。いや、もう亡くなられてますよ」
「ほんまか。そうか、清志郎もいきよったか。・・・千円くれるか」
らもに千円渡すと、ちょっとタバコ買うてくるわ、と席を立ち店を出て行った。買いに行けるんだ、と思った。

携帯で「忌野清志郎」と検索してみた。続けて「中島らも」と検索した。あっそうか、と声が漏れた。
らもが亡くなったのは2004年、忌野清志郎が亡くなったのは2009年。らもは清志郎の生前に亡くなっていたのだ。
知らなかったのか、と少し申し訳なく思った。そして、その辺りの整合性はちゃんと取れていることに、少しおかしくもなった。

中島らもの「著作」を調べてみる。「今夜、すべてのバーで」が初めて読んだ作品だったことや、全三巻の「ガダラの豚」をまだ一巻しか読んでいないことなど思い出した。
その中で「アマニタ・パンセリナ」というタイトルに目が止まる。その小説は、アルコールや様々なドラッグを、らもの実体験とともに紹介する内容のものであった。
次は、ドラッグの話をしようと思った。
らもがタバコをすでに一本咥えて戻ってきた。お釣りを返す様子はなかった。

何のドラッグについて聞こうか考える。というより、ドラッグといえば何があったかを思い出そうとした。覚醒剤がすぐ思いついたが、しかし確か覚醒剤のことを、らもは嫌っていたことを思い出した。それからその作品の中で、幻覚サボテンが取り上げられていたことを思い出した。
「ドラッグなんですけど。幻覚サボテンってどんな感じだったんですか?」
「ああ、あれはな。あかんかった」
「あかんって。効かなかったってことですか」
「そうや。もともとバロウズの『麻薬書簡』ちゅう小説に書かれててんけどな、そういうサボテンがあるいうことが。それでおんなじの取り寄せておんなじに試してみてんけど。輪切りにして天日干しして。食べたけどあかんかった」
バロウズの「麻薬書簡」は読んだことがあり、それは「アマニタ・パンセリナ」をきっかけに読んだことを思い出した。
「サボテンがダメだったんですかね」
「いや、気温とか湿度のせいやったかもしれん。場所はどこやったか忘れたけど、そのサボテンいうのが砂漠地帯に住む部族のシャーマンが神霊体験として使っとって。砂漠地帯やろ。日本とは全く気候がちゃうから、あかんかったんちゃうか思うわ。まあ、バロウズが大袈裟に書いとった可能性もあるけどな」
「咳止めシロップはどうやったんですか」
「咳止めシロップもようやったなぁ。まあ医者に処方してもらったり、薬局で簡単に買えてやりやすかったからな」
「へえ、どんなんになるんですか」
「まあシャキッとした気分になるな。というより、普段の禁断症状のダルさが治ってるだけなんやけどな」
「皆やってはったんですか」
「まあ一時はな。でも皆だんだんやめてって、最後は俺だけやっとった。それこそ清志郎とかが出とったライブに出演したとき、楽屋で咳止めシロップ飲んどって。清志郎から『らもさん何飲んでんの』って言われて、咳止めシロップって応えたら爆笑されてしもたわ。それより自分、関西が生まれか」
「えっ」とそこで、関西弁で話していたことに気づいた。

それから色々話していると、店員がやってきた。
「あの、すみません。もう出て行っていただいてよろしいですか」と店員。
時計を見るが、まだ閉店時間でなかった。店員は怯えた目をしていた。ああ、そういうことかと思った。同時に嫌な気持ちにもなったが、らもが先に立ち上がったので、続いて席を立った。店の前に千円が落ちていた。拾って財布に仕舞った。

帰り道。思いの外、会話が弾んだことに興奮していた。こんなに話すことに心が踊っているのが久しぶりだった。そして、自分はこんなにも中島らものことを好きだったのか、ということに驚いた。もっと話したいと思った。帰りの途中コンビニに寄り、家にまだあるにも関わらず、つまみとお酒を多めに買った。

部屋に戻ると、らもはすぐ寝室の布団にもぐり込んだ。
少し落ち込んだ。落ち込んだ気持ちを切り替えるよう、シャワーを浴びて部屋着に着替えた。テーブルに、らもが食べたはずの昨日買ったパスタが未開封のまま置いてあった。それをつまみに、らもに飲んでもらうために買ったウィスキーを煽った。

押入れから、段ボールを取り出した。実家から持ってきた本やらDVDやらが雑多に詰め込まれていた。かき分け、らもの作品を探り出した。「今夜すべてのバーで」を手に取る。不思議な感覚だった。作者を目の前にしながら読むことは、何というわけではないがとにかく実感が得られた。単語のひとつひとつに特別な意味を感じ取れた。
それから「アマニタ・パンセリナ」を手に取った。表紙をめくると、そこにサインがあった。古本屋で購入したこの本に、たまたまらものサインがしてあったことを思い出した。そこで、どうしてらもが目の前に現れたのか腑に落ちた気がした。

それからしばらく、らもの作品を読みながら酒を煽った。次第に内容が入ってこなくなる。とても酔っていた。
パソコンの電源を入れ、動画サイトにアクセスし動画を見た。違法にアップされたテレビ番組だった。ある居酒屋の二階で、芸人とゲストのミュージシャンが酒を酌み交わしながら、話の流れでミュージシャンが弾き語りを披露するといった内容の番組だった。
お気に入りの弾き語りがあった。カバーをする流れになり、ゲストの前野健太が披露したTRFの「Boy Meets Girl」。初めて聴いた時、「Boy Meets Girl」とはこんな曲だったのか、と驚いた。それこそ先ほどの体験のように、歌詞のひとつひとつに特別な意味を感じられた。

”Boy Meets Girl それぞれの あふれる想いにきらめきと
瞬間を見つけてる 星降る夜の出会いがあるよに…
Boy Meets Girl あの頃は いくつものドアをノックした
あざやかに描かれた 虹のドアをきっとみつけて
心をときめかせている

Boy Meets Girl 出会いこそ 人生の宝探しだね
少年はいつの日か少女の夢 必ず見つめる
Boy Meets Girl 輝いた リズム達が踊り出してる
朝も昼も夜も風が南へと 心をときめかせている”

振り返ると、らもも観ているようだった。聴き終わると、らもは尋ねた。
「これ誰や」
前野健太です。シンガーソングライターの」
「そうか。前野はええなぁ。小室もやるがな」
その一言に、頭の中は興奮して一気に熱くなった。血が駆け巡り、脳に集まっているのだろうか、体は逆に冷えて鳥肌が全身を覆った。酔いが醒める思いがして、実際醒めた。
とてつもなく満たされた思いになり、すべてが報われるようだった。
らもはトイレへ向かった。トイレから出ると、また布団に潜り込んだ。

興奮を覚まそうとウィスキーを飲むが、いくら飲んでも酔わなかった。眠気もなかった。
前野健太」と携帯で検索した。ライブスケジュールを見ると、明日ラッパーとの2マンライブがあるようだった。チケットはまだあった。二人分購入した。
それから、ヨイチさんから借りたDVDを見始めた。彼にらものことを話そうと思った。
彼へどんな風にこの映画の感想を言おうか考えながら、最後まで観た。時計を見ると午前4時だった。そのままソファで眠った。

出社して、その日はまた社長との朝ミーティングがあった。本質を見抜くことが重要だという話。そして、どれほど社員のことを愛しているかという話。それらの話を聞いたのはもう十回目以上だった。それからいつもの自慢話へと舵を取った。しかし、この日はしっかりとそれらの話についてメモをとった。いつもと違った話のように聞こえ、またいつもと違った本質を捉えられるような気がしたからだった。ヨイチさんをみると、彼もこの話は何度目かだろうに、相変わらずメモを取りながら集中して聴いていた。

ミーティングの後、彼に話しかけた。まずDVDを貸してくれたお礼を言い、考えていたようにいかに面白かったかを伝えた。「そんなに感動してもらえて、やっぱり勧めてよかったよ。評論読むの楽しみにしてる」とヨイチさん。そして「あと、関西出身だったっけ」と指摘され、関西弁なまりで話していることに気づいた。
ヨイチさんに「中島らもって知ってる」と尋ねた。ヨイチさんは、知ってるどころか大好きだよ、と興奮した。それから矢継ぎ早に作品の良さについて語った。正直ついていけなかったけど、友人を褒められているようで嬉しかった。また、こんなにも楽しそうに語れることを羨ましく思った。でも、流石に家に現れたことは話さなかった。
席に戻り、評論へ向けて作業を始めた。まず、その映画の背景について調べ始めた。

17時頃、ライブに向かうため会社を出た。満員電車。会場の最寄りは恵比寿駅。車内は乗客の様相を変えながら満員を保ち続け、駅に到着した。恵比寿駅を出て、ライブ会場へ向かった。会場の門の前には、らもが待っていた。

入場の際チケットを二枚渡そうとすると、もう一名様はどこですか、と尋ねられたので、一枚だけ渡して入場した。会場のロッカーにコートやカバンなど荷物を預け、ドリンクチケットをアルコールに変えた。それから、らものアルコールもお金で買った。
メインホールに入り、人となるべくぶつからないようにと少し後ろのセンターを陣取った。開演15分前だった。

場内を見渡してみた。前野健太の演奏から始まるので、おそらく前野のファンである客が前方に集まっており、共演するラッパーの客と前後に分かれる形で場内は半分以上埋まっていた。ラップを聴いて、らもがどう評価するのかも楽しみだった。
正面の女性に目が止まった。その女性は一人で来ているようだった。見覚えのある後ろ姿だった。近づいて見てみると、それは数日前に出ていった彼女だった。

彼女が来ていることに、とても嬉しくなった。久しぶり、と声をかけ、すると彼女は、「久しぶり。その人は」と応えた。彼女には、らものことが見えているようだった。そのことでさらに嬉しくなった。
彼女に、「中島らもだよ」と紹介してみた。どういった反応をするだろうかと思ったが、彼女はらものことを知らなかったようで、中島さんどうも、とすんなり挨拶を受け入れた。

ライブが始まった。前野健太が出てくる。簡単な語りのあと、すぐに曲へ入った。
2曲歌ったあと、3曲目に「東京の空」。この歌も、あの番組で演奏されていた歌だった。

”夕暮れ時はピンクのビルが立ち並ぶ
ほのかな香りがして きみを思い出す

こんなことくりかえして
あんなことくりかえして

きみとわかれてふたり旅に出る

東京の空は 今日もただ青かった
東京の空は 今日もただ青かった

日記を綴るつもりが歌になって
歌を作るつもりがノートに残ったまま

こんなことくりかえして
あんなことくりかえして

きみと会った 忘れるわけないだろ

東京の空は 今日もただ青かった
東京の空は 今日もただ青かった

東京の空の下は 男と女
東京の空の下は 男と女”

彼女との生活を思い出した。もう一度やり直したいと強く思った。
らもの言ったことに彼女が笑っているようだった。こちらからは何を言っているのか聞こえなかった。好きな人と好きな人が繋がったことを嬉しく思った。

お酒がなくなったので、メインホールを出て三人分のお酒を買いにいった。
戻ると、彼女とらもがまだ笑いあっていた。さっきより二人の距離は肩がぶつかるほど近づいていた。
二人の分のお酒に渡し、それからも二人はずっと笑いあっていた。
何度か、らもが彼女の肩に手を回していたことにイライラしてしまった。名曲「ねえ、タクシー」をちゃんと聴いていないことには、もっとイライラしてしまった。
耐えかねてメインホールを出て、カフェスペースで一人飲んだ。

メインホールに戻ると、ちょうどラッパーの演奏が終わる頃だった。
「どこ行ってたの」と彼女。
「ちょっと気分悪くなって」と嘘をつく。
「タバコ、吸いたいな」とらもが言ったので、喫煙スペースに三人で向かった。

らもと彼女がタバコを吸っていて、自分は吸わないのでそれを眺めた。
前野の話をしようと思ったけど、二人はラッパーがすごかった、としきりに話していた。らもがラップを評価している、ということが、嬉しいだけに余計腹立たしく思わせた。

これからウチに行っていい、と彼女が言うので、三人で家で飲むことにした。
二人はタクシーで行こうというので、お金だけ渡して、一人電車で帰った。
電車に揺られながら、頭の中で、俺なんも変わってへんやん、とか、いつまでこんなこと続けてしまうんやろ、と自問自答する。頭の中の声も、関西弁に変わっていることに嫌になった。
電車を降り、改札を抜け駅を出る。雨が降っていたのか湿気が多く、空気が生ぬるかった。駅前を見渡すと、コンビニ、パチンコ屋、古本屋、全国チェーンのスーパー、カラオケ屋。地元の駅前と大して代わり映えしない街並みに、ここが東京なのか分からなくなった。
無性に鍋がしたくなって、具材を買いに24時間営業のスーパーに寄る。適当に鍋の具材と酒を買い、酒を飲みながら歩いて帰った。

鍋が出来上がる頃、二人が着いた。
鍋をつついて、酒を飲んだ。今日のライブについて感想を言い合い、動画サイトで前野の動画を見た。だけど、共演したラッパーの話になって、いつの間にかラッパーの動画を見始めた。嫌な気持ちになったけど、確かに良くて、酔いはさらに回って、さっきのモヤモヤはもうどうでもよくなっていた。
らもがシメに、たまごとご飯を入れて雑炊を作ってくれて、それがすごくうまかった。食べ終わると急に眠気が襲って、そのまま眠った。

夢をみた。らもと彼女が何かの列に並んでいる夢。続いて並ぼうとすると、彼女にダメ、と言われる。どうしてと尋ねるが、彼女は応えず、”それ”を渡した。”それ”は生温かくてスライムのように柔らかく、ほのかに甘い香りがした。ああそうか、となぜか納得して、そこで目が覚めた。
目覚めると、二人はいなくなっていた。
彼女から携帯にメッセージが入っていた。「久しぶり。忘れたものがあったから、今日取りにいくね」とのことだった。「久しぶりってどういうこと? わかった」と返信した。

出社して、会社の同僚からヨイチさんが会社を辞めたことを聞かされた。クビになったとのことだった。
会社に置き忘れたノートを社長が読んだらしく、そこには社員や会社に対する悪口がぎっしりと書かれており、その中に社長の悪口もあったらしく、それが社長の逆鱗に触れたようだった。その同僚はノートを読んだらしく、「お前の悪口も書かれてたよ」と言われ、あえて何が書かれてるか聞かなかった。代わりに彼をかばうように「でも、ノートを読んだ方が悪いよな」と応えて気まずい空気になって、そうなることは分かっていたけど、耐えかねてその場を立ち去った。
彼の中でもちゃんとバランスをとっていたんだ、ということだと思った。でも、そのことにちょっと安心してしまっていることに気づいて、少し自分が嫌になった。

彼女の声が無性に聴きたくなって電話をした。
「もしもし」
「久しぶり。何、今仕事中なんだけど」
正直出るとは思っていなくて何を話すか言葉に迷った。
「そういえば忘れ物のことなんだけど、もしよかったら宅配で送ってもらってもいい」
「・・・あのさ。もう一回付き合ってくれへん」
「ああ・・・でも、もう彼氏できちゃったから」
「でも昨日会った時、そんな話してなかったやん」
「昨日って何」
「昨日。らもと飲んだとき」
「らもって何。私が出て行ってから一度も会ってないでしょ。なんか、大丈夫」
「・・・」
「やっぱり私今日取りに行くね。じゃあ切るね」
「いや、ええよ。送っとく。じゃあ」

オフィスの自分の席に戻った。訳が分からなくなってしまって、そこへ上司がやってきて、今どんな具合かと尋ねたので、もう分かりませんと応えた。そのあと上司が何か言っていたけど、全く頭に入ってこなかった。

とにかく評論を書き始めようと、パソコンを立ち上げた。
「同居していた彼女がいなくなって何度目かの朝」と全く評論と関係ないことを書き出してしまい、すぐに消去した。